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福岡高等裁判所 平成4年(行コ)12号 判決

控訴人

林桂珍

右訴訟代理人弁護士

吉野正

熊谷悟郎

柳川昭二

矢野正剛

稲村鈴代

被控訴人

福岡入国管理局主任審査官

山崎哲夫

右指定代理人

齋藤博志

〈外四名〉

主文

一  原判決を取り消す。

二  本件訴えを却下する。

三  訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。

事実

一  当事者の求める裁判

1  控訴人

(一)  原判決を取り消す。

(二)  被控訴人が平成元年一二月一日付で控訴人に対してした退去強制令書発付処分を取り消す。

(三)  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

2  被控訴人

(本案前の答弁・当審において追加)

主文第一、二項と同旨

(本案に対する答弁)

(一) 本件控訴を棄却する。

(二) 控訴費用は控訴人の負担とする。

二  当事者双方の主張及び証拠の関係は、次項のとおり付加するほかは、原判決の事実摘示(但し、原判決別紙「経過表」の「(4)」の「法二七条」を「法四四条」と改める。)並びに原審及び当審各訴訟記録中の書証目録、証人等目録に記載のとおりであるから、これらを引用する。

三  本件訴えの利益について

1  被控訴人の主張

控訴人は、平成三年八月一四日、本件処分に基づく退去強制令書が執行され、中国に送還された。従って、次の(一)または(二)の理由により、本件訴えの利益は消滅したから、本件訴えは不適法として却下されるべきである。

(一)  控訴人は、本件処分に基づく退去強制令書の執行として中国本土に強制送還された。従って、本件処分は、退去強制令書の執行が完了したことによって、その目的を達してその本来的効果が失われた。そしてまた、右執行後、既に一年を経過したから、控訴人が将来再度日本に入国しようとするとき、法(引用に係る原判決のいう「出入国管理及び難民認定法」のこと)五条一項九号に該当することもなくなった。

このように、本件処分の法的効力は消滅し、まったく存在しないから、控訴人には、もはや本件処分の取消しによって回復すべき法律上の利益はない。

(二)  仮に本件処分が取り消されたとしても、控訴人が現に中国人として中国に居住しその主権下にあることから、控訴人を本件処分前の状態に戻すことは、我が国では裁判上の実現が不可能なことがらである。従って、この点からも控訴人の本件訴えの利益はなくなっているというべきである。

2  控訴人の主張

控訴人が本件訴え提起後の平成三年八月一四日に本件処分に基づく退去強制令書の執行を受け、中国に送還されてしまったことは、被控訴人主張のとおりである。しかし、次に述べるように、これによって本件訴えの利益が消滅することなどないし、そもそも被控訴人が本件訴えの利益が消滅したなどと主張することは許されないのである。

(一)  法の退去強制手続は、その過程において容疑者の身体の自由を拘束し、最終的には退去強制処分という容疑者の身体の自由に重大な影響を与える不利益処分を実施するための手続であることに鑑みると、その解釈・運用に当たっては、憲法三一条の趣旨をじゅうぶんに斟酌すべきである。従って、適正手続に違反してなされた退去強制処分は、法に違反するのみならず、直ちに憲法三一条に違反する。そして、この場合、右処分を受けた者は、憲法三一条による保護・救済を受ける憲法上の権利を有する。

本件訴えは、右の憲法上の権利の行使として、控訴人において、違法・違憲の本件処分の取消しを求めているのである。従って、仮にも執行が完了したから取消しの利益がないなどという被控訴人の主張が認められるならば、違法・違憲の手続によって本件処分を受けた控訴人が、本件処分の違法・違憲を直截弾劾する方法などないことになって、これでは憲法三一条の規定もまったく意味をなさず、違法・違憲の本件処分がそのまま罷り通ることになる。そうであれば、本件訴えは、本件処分の取消しを求めるという最も簡明直截な請求であり、憲法三一条の趣旨に沿うものであるから、依然として訴えの利益があるというべきである。

(二)  本件訴えは、前記のように違法・違憲の本件処分について受けた重大な人権の侵害からの救済、身体の自由という人権の擁護を求め、本件処分の取消しを訴求しているものである。すなわち、控訴人は、本件訴えについて実体審理がなされ、この審理の過程で控訴人の自由の拘束を伴う本件処分が違法・違憲であることが証拠によって確認され、この結果人権侵害からの救済を得られるとして本訴を提起しているのであって、要するに憲法三二条にいう裁判を受ける憲法上の権利を行使しているのである。しかるに、被控訴人がいうような事由で本件訴えの利益が消滅したとするならば、控訴人は、実体審理による裁判を受ける方途を容易に塞がれてしまうことになってしまう。そもそも裁判を受ける権利は、人権擁護・権利侵害を司法的に保障ないし救済するための基本的人権であることに鑑みると、本件訴えについては、その趣旨・原因からして実体審理にはいってしかるべきであり、被控訴人の主張するような事由で実体審理にはいらないとすれば、それは控訴人の裁判を受ける権利を直ちに侵害することになる。

このように、控訴人の裁判を受ける権利を保障するためにも、本件訴えの利益は存在している。

(三)  なるほど、控訴人が本件処分に基づく退去強制令書の執行により中国に送還されて既に一年以上が経過したから、再度日本に入国する際に法五条一項九号に該当する余地はなくなり、従って、この限りでは控訴人が日本に上陸することを拒否されることはなくなったとはいえる。しかし、控訴人にはなお本件処分の取消しによって回復すべき法律上の利益がある。

まず、たとえ控訴人が法五条一項九号に該当しなくなっても、法務大臣は、同条一項一四号に基づく広範な権限を有しているから、控訴人が再度日本に入国しようとするとき、本件処分に基づき強制送還を受けた前歴を斟酌してその入国の許否を決定する蓋然性が高く、この場合、この経歴が控訴人に不利益に働くであろうことは明らかである。のみならず、仮に再度の入国を拒絶されず日本に在留することになったとしても、後日、控訴人の在留資格の変更、在留期間の更新、帰化申請等の在留生活のあらゆる領域において、右の経歴が不利益な情状として斟酌され、実際に不利益な取扱いを受けるおそれが強いから、この意味においても本件処分の取消判決を得ておく法律上の利益がある。

さらにまた、控訴人は、本件処分により、このまま中国に在留しようとも、あるいは将来日本に在留することになろうとも、過去に日本から強制退去させられたという経歴がその社会的名誉を害い、日常生活上のあらゆる場面での社会的信用をも害うことになる。このような社会的名誉や信用の回復を図るためにも、本件処分の取消しを求める法律上の利益がある。

(四)  仮に、以上の主張が認められないとしても、控訴人が本件処分の執行を受けないでいれば、本件処分の取消しを求める訴えがその利益を失わなかったことは明らかである。本件訴えは、まさにこの本件処分の適否を巡ってのものであるのに、被控訴人は本件処分を一方的に執行してこれを完了させ、これによって本件処分の取消しを求める法律上の利益を喪失させてしまった。このような被控訴人の行為は、文字どおり本件裁判をつぶす意図に出たもので控訴人の裁判を受ける権利を侵害する違憲の行為にほかならない。

このように、被控訴人が一方的に訴えの利益を奪いながら、本件訴えの利益がないと主張することは、信義則に照らしてとうてい許されない。

(五)  なお、被控訴人は、本件訴えが実現不可能なことを求めるものであるというが、そのようなことはなく、しかるべき手段を尽くすことによって、控訴人を本邦に入国させることは被控訴人にとって可能であるし、またそうすべきである。

理由

一  本件訴えの利益について

1 法の定める退去強制手続は、法二四条所定の退去強制事由の有無を明らかにして、この退去事由がある者について法五一条所定の退去強制令書を発付したうえ、これに基づき当該容疑者を実力でもって日本国外に退去・送還させるものである。従って、退去強制令書に基づき当該容疑者が国外に退去・送還されたときには、右の強制退去令書の発付及びこれに基づく執行は、その目的を達してその効力は消滅し、以後、この同じ強制退去令書に基づいて再度同一容疑者に対して退去強制の執行がなされることなどないばかりか、右の執行は物ではなく人に対する実力行使という事実上の行為によって組成されるものであることから、一度執行されてしまうとそれは歴史的事実となって、これがなかったことにすることなど物理的に不可能なのである。そうであれば、退去強制令書の執行が完了してしまったにもかかわらず、なお退去強制令書の発付処分の取消しを訴求するには、取消しによってなお回復すべき法律上の利益がある場合でなければならない。

右の説示を本件についてみるに、控訴人が本件訴えによって取消しを求めている本件処分に基づく退去強制令書の執行によって、控訴人が平成三年八月一四日既に日本から退去、中国に送還されてしまっていることは当事者間に争いがないから、他に本件処分の取消しによってなお回復すべき法律上の利益がない場合には、本件訴えは、もはや訴えの利益を欠くものとして却下を免れないというほかはない。

そこで、以下に右の法律上の利益の存否について検討する。

2 まず控訴人は、本件処分の取消しを求める本件訴えが憲法三一条に由来する保護・救済を求める憲法上の権利の行使であることなどを理由にして、本件処分の取消しを求める法律上の利益があるかのような主張をする。

しかし、仮に本件訴えが控訴人主張のようなものであるとしても、本件訴えは本件処分の取消しを求める抗告訴訟である以上、右のような事由のみをもって訴えの利益を肯定すべき根拠などない。右主張は採用できない。

3 次に控訴人は、本件訴えの趣旨・原因からして、本訴につき実体判断を回避することは直ちに憲法三二条の裁判を受ける権利を侵害することになるから、このような場合、訴えの利益のあることを認めるべきであるかのような主張をする。

しかし、裁判を受ける権利は、本件のような抗告訴訟に関しても、実体判断を受ける権利まで保障しているわけではないから、右主張も理由がない。

4  さらに控訴人は、次のように主張する。控訴人が本件処分により日本から退去を強制されて既に一年が経過しているので、控訴人がこれから日本に入国しようとするときに、法五条一項九号の事由を理由に上陸を拒絶されることはなくなったといえても、これとは別に法務大臣が同条一項一四号を根拠に控訴人の本件処分に基づく強制退去歴を不利益に斟酌して上陸の許否を決定する蓋然性が高く、また仮に控訴人が上陸を許可されても、その後外国人として在留生活を送るうえでのさまざまの規制について、右の経歴を理由に不利益な取扱いを受ける可能性があるから、この際、将来の障害となる本件処分を取り消しておくことに法律上の利益がある、というのである。

しかしながら、本件処分に基づく退去強制令書の執行が終了してから既に一年が経過しているから、控訴人が法五条一項九号の事由に該当するとして日本への上陸を拒否されることがなくなったことはもとより、他に本件処分及びこれの執行があったことを理由に控訴人を不利益に取扱うことができることを認める法令の規定はない。確かに、控訴人が将来日本に上陸するとき、さらに在留生活を送ることになったとき、本件処分に基づく強制退去歴が、情状として、考慮されて不利益な取扱いを受けるおそれがまったくないとはいえないかも知れない。従って、この観点からすると、将来の不利益の発生を防止するために、本件処分の取消しを求める利益がありそうではある。しかし、控訴人の主張する事態は全て将来のことであり、それも発生するのかどうかが確かでなく、仮に控訴人に対して、将来、本件処分と同じあるいは類似の何らかの処分がなされる機会が到来するとしても、このとき本件の強制退去歴が情状として実際に影響することがあるのか、これがあるとしてどの程度影響するのか、この結果、不利益な取扱いというべき処分がなされることになるのか、いずれも将来のことであってそれ自体発生するかどうか不明確である。そうすれば、法に定められた法務大臣等の処分権者らが有する権限を考慮しても、右のような事態が発生する蓋然性が高いとは認められない。このようにして、将来の障害除去のために、本件処分の取消しを求める法律上の利益があるという控訴人の主張は、採用し難い。

次に、控訴人は、本件処分により控訴人の社会的名誉や信用が害われたところ、これの回復をするためには端的に本件処分を取り消すことが最も適切、有効であるから、この点からしても本件処分の取消しを求める法律上の利益があると主張する。

しかし、本件処分は、法二四条所定の退去事由のある者を日本から強制的に退去させることを目的とするもので、これが本件処分の直接的な法的効力である。すなわち、本件処分は、控訴人の社会的名誉や信用の侵害を目的とするものではなく、仮に控訴人に右のような侵害が発生しあるいは発生するおそれがあっても、そのような事態は、本件処分に伴う副次的な事実上の効果であるというほかはないから、国家賠償法の規定に基づいて損害賠償等の請求により救済を求めるのは格別、本件処分の取消しを求める法律上の利益の根拠とは未だなし難い。控訴人の右の主張も、採用できない。

5  次に、控訴人は、以下のように主張する。すなわち、仮に本件処分の取消しを求める法律上の利益が消滅しているとしても、それは被控訴人が控訴人の本件訴えの提起にもかかわらず、裁判所の実体判断の出ないうちに控訴人を中国に退去させてしまったからにほかならず、このようなことは控訴人の憲法三二条の裁判を受ける権利を侵害する違憲の行為であるうえ、信義則上も右の退去させた事実をもって本件訴えの利益がなくなったなどと主張することを許すべきではない、というのである。

なるほど、控訴人が本件処分の取消しを求めて出訴したのに、平成三年八月一四日に本件処分に基づく退去強制令書の執行を受けて中国に送還されてしまっていることは、既に触れたように当事者間に争いがない。しかし一方、本件訴訟記録によれば、控訴人が本件訴えの提起とともに本件処分に基づく退去強制令書の執行の停止を申し立てたところ、受訴裁判所の福岡地方裁判所は、平成二年六月八日、右令書の送還部分の執行につき本案事件の第一審判決の言渡日から一か月を経過する日まで停止する旨決定したこと、ところが、抗告審である福岡高等裁判所は、同年七月二〇日、本案について理由がないとみえるときに該当するとして、右の決定を取り消したうえ控訴人の執行停止の申立を却下する旨の決定をなし、最高裁判所も同年一〇月九日に控訴人の特別抗告を却下したこと、以上の事実を認めることができる。

そうすると、右の退去強制令書に基づき控訴人が中国へ退去、送還された当時、右の執行を妨げる法的根拠はなかったのであって、これに以下の説示を併せ考えると、被控訴人が右のとおり執行したことに違法の点はないというべきである。

確かに、控訴人が本件処分の取消しを求めて出訴し、これに対する取消事由の存否等のいわゆる実体についての裁判所の最終的判断が示されないうちに、一方当事者の被控訴人が本件処分に基づく退去強制令書の執行をして本件訴えの利益を消滅させてしまい、この結果、本訴提起の目的であった本件処分の取消事由の存否についての裁判所の判断を得る機会を不能としてしまうことには、問題がないではない。すなわち、被控訴人がこのような行為に出た動機、執行によって原状回復が著しく困難となり、これに伴う被侵害利益が重大であること、すぐに執行すべき差し迫った事情や当面の間執行を差し控えても我が国に重大な脅威もないなどの諸般の事情のいかんによっては、右の執行が控訴人の裁判を受ける権利を侵害するものであると評価される余地もあり得ると考えられ、この場合、信義則上、被控訴人が訴えの利益がないと主張することを許さないとすること、あるいは仮にこれを主張しないとしても訴えの利益があるものとして取扱うことが考えられないではないからである。しかし、このようにいってはみても、本件においては、執行停止の申立事件において、裁判所が本案について理由がないとみえるときに該当するといって申立てを容れなかったのであり、さらに法によれば、退去強制事由のある者にはすみやかに退去強制令書を発付し(法四七条四項、四八条八項、四九条五項)、これをすみやかに執行すべきこと(法五二条三項)が定められているのであって、このことも考慮すると、被控訴人が裁判所のいわゆる実体的判断をまつことなく右の執行をしたことをもって、控訴人の裁判を受ける権利を侵害したとまで断じるわけにはいかず、従ってまた、本件において被控訴人が右の執行の完了によって本件訴えの利益が消滅したと主張することをもって、信義則に違反するとまでは断じ難い。かくしては、この種の取消訴訟において被控訴人ら処分権者らが必勝であるという批判もあろうが、現行法制(なお、かかる法制がただちに憲法に違反するものとは認められない。)のもとにあっては止むを得ない結論である。

このようにして、控訴人の前記主張も採用できないというべきである。

二  以上のとおりであるから、本件処分の取消しを求める法律上の利益は、今となっては既に消滅したというほかはないから、本件訴えを不適法として却下すべきである。

よって、これと異なる原判決(ただ、原判決が言渡された当時、控訴人が強制退去を受けてから未だ一年が経過していなかったことは、原審訴訟記録により明らかであるから、法五条一項九号の規定からして本件訴えの利益が原判決言渡当時存在していたことは明らかである。)を取り消したうえ、改めて本件訴えを却下することとし、民訴法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官緒賀恒雄 裁判官近藤敬夫 裁判官川久保政德)

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